時ノ寿の森とは
時ノ寿の森クラブストーリー


望郷の念による復元ではない。テーマパークづくりでもない。
「あるべきもの」を「あるべきところに」、それが「時ノ寿の森」の活動です。

静岡県掛川市倉真(くらみ)大沢集落 字名「時ノ寿(ときのす)」

…ここには山と共に生き、山を守り、育てる人々が暮らしていました。木々、水、生き物たち…山の恵みを人々は知恵と技術によってそれを活用し、感謝と畏敬の念を持ちながら大切に維持してきました。山からいただいた木を使ったら、植え、育て、管理する。そして、またいただく。山とともに生きるサイクルは、人々の暮らしを支えていたのです。
この山の恵みは山に住む人たちだけのものではありませんでした。良く管理された山は保水力があり、ふもとの町々を水害や災害から守ってくれました。清らかな水は川を流れ、人々の渇きをいやしました。それが、森、里山、町、そして海へ…自然と人々が織りなす素晴らしいサイクルがそこにあったのです。


廃村・問題定義へ

しかし時代は進み、時は高度経済成長期。利便性と仕事の大幅な変化により、時ノ寿の人々は一人、また一人と山を下りていきました。そして1975年、最後の一軒が時ノ寿を後にし、大沢集落は消滅したのです。手入れされない森は荒れ、表土は流出し、森の大切な役割である保水力は低下。記録的な大雨が降れば、ふもとの集落が大規模な水害に見舞われるのは時間の問題でした。
そう、「自然界のあるべき姿」がそこになくなった時、すべてのバランスが狂いはじめるのです。このまま山が荒廃していけば、次の世代を担う子どもたちの前には、何が残されるのでしょうか?
 

手入れが行き届かず、昼間でも暗く荒れた森の様子

「あるべきもの」を「あるべきところに」時ノ寿の森クラブが活動開始

小さなはじまり…。人々が去っていった時ノ寿。その森の最後の一軒となったのが時ノ寿の森クラブ理事長、松浦の家でした。松浦は子どものころ走り回った森が荒れ果て、川が土砂で埋まり、夏休みには飛び込んでいた滝壺が無残な姿になっている事に心を痛めました。しかし、思いに留まったのはそれだけではありませんでした。それは、「ヤマが荒れると国が滅びる」と言う先人の言葉。背筋の寒さと危機感が募りました。
そして1996年、松浦は共感する妻とともに「炭焼きルネッサンスの会」を立ち上げ活動を開始しました。ところが、すぐに直面したのは、個人の炭焼きだけでは里山の荒廃には立ち向かえないという現実。「子どもたちが口に入れるものも、昔と同じ安全なものを…」と願いはじめたお茶とお米の無農薬・有機栽培も虫や病気に侵され生産量はわずか。「はたして何年かかるんだろう・・・」松浦はため息をつきました。


19人の有志が集い任意団体「時ノ寿の森クラブ」発足

松浦は自分の想いを積極的に発信する事をはじめました。松浦の地道な活動を見ていた人たち、どうなるかを静観していた人たち…、彼らが一人、また一人と「傍観者」から「仲間」になっていったのです。そして2006年、19人の「仲間」とともに、任意団体「時ノ寿の森クラブ」を発足したのです。
メンバーは地元出身の強みを最大限に生かし、間伐を施さなければならない山々の所有者100人以上に声を掛け、「子どもたちの未来のための森林保全」への協力を訴えました。地主の中にはもう地元には住んでいない方もいましたが、メンバーの想いに心を動かされ大規模な間伐、保全活動の基盤が完成しました。
メンバーたちは休日ごとに、一緒に荒れた林道を根気よく整え、間伐をおこない続けました。自分たちの技術、機材、そして体力を惜しみなく注いだ結果、少しずつではありますが昔の里山の風景が戻ってきました。
 

保全活動によって、明るく再生しはじめた森の様子

「山を守り、山と共に生きる」-木のぬくもりを感じるプラットホームづくり

都市に暮らす人々が山と親しみ、当たり前にあるべき里山を守りたいという気持ちになってもらうには山とコミュニケーションができるプラットホームが必要になりました。「時ノ寿らしい活動拠点」です。
いろいろと考えた結果、時ノ寿で伐採した木材をふんだんに使い、モダンなデザインでありながら新建材や空調システムを使わず、先人の知恵を生かした土壁や土間、木炭によるうるおいのある家を造ろうということになりました。
暖房は薪ストーブ。風呂は薪の具合で湯加減を決める五右衛門風呂。木のにおい、土のにおい、空気のにおい…、人が本来快く感じる場所をつくるために、大工・左官・建築士・電気工事士など専門分野のプロと想いを持った会員がコラボし、2年半の歳月をかけてクラブハウス「森の駅」が2008年に完成しました。


活動は官民連携の「命を守る希望の森づくりプロジェクト」へ

2008年から、森林整備をおこなう事業体と連携し、所有者の取りまとめをクラブがおこない、県への申請と整備を林業事業体がおこなうことにより、森の力再生事業による間伐を進めました。初年度は4.11haを間伐、翌年には21.64haを、さらに翌々年には35.96haを間伐し、間伐整備は2020年3月までに延べ440haにまで広がり、時ノ寿の森を健全な森林に再生することができました。
そして、2010年にはNPO法人(特定非営利活動法人)となり、活動の幅は山だけに留まらず、市街地や海岸域まで広がっていきました。これが、掛川市と連携して進めている、市民・企業・団体・行政協働による「命を守る希望の森づくりプロジェクト」です。
このプロジェクトでは、2012年以降、海岸防災林や中東遠総合医療センター等で植樹活動をおこなっており、毎年多くの市民が参加しています。2019年6月末までに植樹された苗木の数は11万8千本余りにも上ります。


森とつながるプラットホームの多様化

この間プラットホームづくりも進み、2014年には一般の人が気軽に立ち寄れるビジターセンターとして、木のにおいを嗅ぎながら、ゆっくり読書もできる「森の集会所」が完成。ヤギたちと触れあえる「森のまきば」、真っ黒になりながら木々と会話もできる「炭焼き工房」、海まで一望できるトレッキングコース・・・・。子どもたちが自然に触れ、大人たちが都会の雑踏から逃れ、人らしい時間を過ごせる空間が少しずつ充実してきました。また、時ノ寿の森の自然を生かして子育て支援をおこなう「森のようちえん」を週末に開催するようになりました。
このほか、携帯電話もつながらない、ゲーム機もないのに時間の経過を忘れさせてくれたり、素顔の自分と出会えるようなイベントも定期的に開催できるようになりました。


日本の森林保全のモデルとして

私たちの活動の幅はこうして広がっていきましたが、活動の原点である「森林の再生」は決して簡単に進んだわけではありません。倉真地区は一人の山主が持つ森林面積が平均1ha以下で、小規模な所有者がほとんどです。不在村、未登記の山もあります。このため、多くの山主と地道に連絡をとり、少しずつ了解を取り付けながら事業化につなげてきました。加えて急峻な山が多く、林業の採算性を確保するのは至難の業です。同じことが日本中の山の課題となっています。
時ノ寿の森の活動は、「個人から組織へ」「公的支援を得て社会的活動へ」広がり、この間に起こった数々の自然災害から人々の「環境への関心の高まり」もあいまって、いよいよ本格的な活動へのスタートラインに立っていると感じています。森、土、水、空気、そして人―、「あるべきもの」が「あるべきところに」あり続けられるように、時ノ寿の森の活動が日本全国の森林保全のモデルとなるべく、これからも挑戦を続けていきます。